「親鸞会」の卒業と「念仏の信心」のススメ

親鸞会からの卒業と、いろいろな入射角で浄土真宗の領解を取り上げるブログです

⑲「21世紀の浄土真宗を考える会」のブログ

親鸞会元講師の近藤智史氏が生前に書いていたブログ、 「21世紀の浄土真宗を考える会」のブログ記事を抜粋してアーカイブとしました。 関係者の了解を得ましたので、以下のURLに移管させて頂きました。21century-shinshu.hatenadiary.com: 今も褪せることな…

⑱「還相回向」について

「還相回向」について書きたいとおもいます。 親鸞聖人は、『教行信証』に、 「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり」と述べられています。 「往相回向」は、私を極楽浄土に往生させるはたらき、 「還相回向」は…

⑰「不浄説法」について

「不浄説法」ということについて書きたいとおもいます。 「不浄説法」とは、 「自己の名誉や利益のために教法を説くことであり、誤った教法を説くこと」 とされています。 宗派によって少しづつ定義が異なりますが、趣旨は一緒と考えてよいとおもいます。 善…

⑯「乃至一念」について

「乃至一念」について書きたいとおもいます。 「乃至一念」は、 『大無量寿経』の中の「本願成就文」「下品上生」「弥勒付属文」3か所にあります。 法然聖人は、「乃至一念」は3つとも「行の一念」だとされています。 親鸞聖人は『教行信証』では「本願成就…

⑮「三方よし」について

真宗教義の少し難しい話が続きましたので、今回は少し視点を変えてみたいと思いました。 「三方よし」と言うことについて書いてみたいと思います。 「三方よし」は近江商人の経営理念であったと言われます。 三方とは「売り手よし」「買い手よし」「世間よし…

⑭「称名念仏」について

「称名念仏」について書きたいとおもいます。 親鸞聖人は『教行信証』「行巻」で、 私たちの救いの「大行」は「無碍光如来の名を称えることである」 と明確にお示しになっています。 「無碍光如来の名」とは「名号」(南無阿弥陀仏)のことですので、ひとま…

⑬「歓喜」について

「歓喜」について書いてみたいとおもいます。 ⑪「信心」について、で浄土真宗の「信心」は「疑いが無くなる」ということであり意業とは直接的な関係がないことを述べました。 これについて親鸞会の元講師や会員の方から、信心決定したら「大歓喜がおこるので…

⑫「なぜ生きる」について

「なぜ生きる」についてです。 「なぜ生きる」は「仏法」であり「どう生きる」は「仕事・学業・政治・経済・科学など」である。 「なぜ生きる」が目的であり「どう生きる」は手段である。 「なぜ生きる」は「どう生きる」より重要である。 などという論理が…

⑪「信心」について

今回は「信心」について書かせて頂きたいと思います。 親鸞聖人の教えは、「信心正因」であり「信心」によって救われると言われています。 「信心」の話を避けていては浄土真宗の領解について述べたことにならないとおもいますので、このテーマを取り上げさ…

⑩感想を頂きました(その3)

最近頂いた感想について、感じたことを書かせていただきたいとおもいます。 ある親鸞会の講師の方から、 「親鸞会については、私のほうが詳しく分かるので、教えて頂かなくても大丈夫かと思います。もっと(ブログ筆者の)何かユニークな強みが出るような情…

⑨「一念覚知」について

「一念覚知」についてYouTubeなどの動画で、数多くの根拠が出されて論争が続いているようです。 親鸞会の元講師の方から、それとは少し異なる観点「認識論」で述べてみてほしいとのことです。 「一念覚知」の定義を『浄土真宗辞典』では 「行者は、信の一念…

⑧感想を頂きました(その2)

別の元会員の方から「一つだけお願いしたいと思うことは過去の恨み節は書かないようにお願いします。」という感想をいただきました。 自分で読み返し、その通りであると思われる部分を①からすべて、全体的に修正いたしました。 「南無阿弥陀仏」のはたらきで…

⑦「行信」について

浄土真宗の「行信」について書きたいとおもいます。 親鸞聖人は「行信」によって救われると説かれています。 「信(信心)」だけ、あるいは「行(念仏)」だけではなく「行信」によって往生させていただくのです。 「行を離れた信はなく、信を離れた行もない…

⑥感想を頂きました(その1)

このブログを読んでいただいている方の中には親鸞会に何らかの関係がある、もしくは関心のある方もあるかとおもいます。 多くの方に記事を読んでいただいておりますが、誠に有難うございます。 感想をいただきましたのでいくつか紹介させていただきます。 あ…

⑤「親鸞聖人像」ついて

「親鸞聖人像」ということについて述べてみたいとおもいます。 「これが浄土真宗の教えである」と語られるとき、親鸞聖人のお言葉があげられて説明がなされ、その中で自分の領解を申し上げる、というのが浄土真宗のご法話というものの大体の構成ではないかと…