「還相回向」について書きたいとおもいます。
親鸞聖人は、『教行信証』に、
「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり」と述べられています。
「往相回向」は、私を極楽浄土に往生させるはたらき、
「還相回向」は、往生の後、娑婆世界に還ってきて衆生を救済するはたらき、
親鸞聖人は両方とも、阿弥陀如来から「回向」されるはたらきと説かれています。
「還相回向」は未来のことという程度に考えており、いまひとつピンときませんでした。
数年前に母を亡くしました。ガンで2年ほど抗がん剤治療をしたのですが再発を繰り返し、みるみるうちにやせ細ってゆきました。
亡くなる前の1か月ほど、入院先の病院に通うことができいろいろな話をしたり一緒に時間を過ごすことができました。
母が最も悔いていたのは、私が親鸞会の活動に深く入ったことでした。
母は、親鸞会のみならず宗教組織の矛盾をよく私に告げており、私がすでに親鸞会をやめて長い年月が経っていたにもかかわらず、最後までそのことを言い続けました。
母が、亡くなる直前に、私は「南無阿弥陀仏」と念仏を称えました。
最後の瞬間、母は、カーっと怒って息を引き取りました。
臨終に母が念仏を称えてくれれば、心が変わるのではないかと最後まで期待していた私は、なんだか落胆した気持になったように思います。
その後、しばらくして浄土真宗本願寺のある布教師の方の御示談を頂くご縁がありました。
母の臨終の時、私は念仏称えたけどかえって母は怒ってしまった、それが最後の別れだった、というショックを正直に話してみました。
するとその先生は、
「怒ったということは、最後にお母さんは南無阿弥陀仏を聞いたということなんだから、阿弥陀様は必ず救って下さいますよ。
阿弥陀様は無量のいのちを持った仏様なので、きっともうお母さんは救われてると思います。」
と驚くようなことを笑顔で言われました。
その時に、いろいろなことがつながりました。
「名号」を聞いた母は、次生で阿弥陀如来のお救いに遇っているに違いありません。
「お前の母のことは、もう助けたぞー」と聞こえたような気がしました。
私たちは、人間の世界の概念で時を想像します。
阿弥陀如来は無量のいのちを持ったほとけ様ですので、有限な人間世界とは異なる、永遠の宗教的な時間が流れているように感じます。
永遠の時の中、「還相回向」によって亡くなった大切な人が、「いま・ここに」還って来ているように味わうことができるのだと思います。
そして私もこの世の縁が尽きた時に同じように、懐かしい人たちのところに還ってゆくのでしょう。
それは遠い未来のことではありません。
しばらくして、親鸞会の講師と話す機会があり、母の臨終の話をしました。
その講師からは「母親は会員だったのか」と聞かれ、「親鸞会の活動に反対していたので会員ではなかった」と答えました。
すると一瞬でつまらなそうな顔に変わり、「そんなことよりも」と言って、親鸞会の行事や活動の話をし始めました。
この世で「ハッキリ」救われていない人は、死後何億年も地獄で苦しまなければならない、というのが親鸞会の教義です。
その講師自身も「ハッキリ」しておらず不安なのでしょう。
まして会員でもなかった人が救われるなどということは、他の会員の手前、宗教組織の運営上も想定してはならないことだとおもいます。
こんな組織ドグマのような話を聞いていても、阿弥陀如来のはたらきに出遇うことはできないだろうとおもいいつつ、このような宗教団体と離れてよかったと感じました。
「還相回向」のはらたきによって、大切な人は「いま・ここに」還ってきます。
親鸞聖人も還ってきてくださり、そして私もまた還るのでしょう。
そのような生命の往還を説かれたのが浄土真宗ではないか、と気付かせて頂きました。