「カルト」ということについて、少し述べてみたいとおもいます。
「カルト」という用語は、メディアなどでしばしば用いられますが、学術的にはいまだ確かな定義はないようです。
統一教会の問題がクローズアップされ、堰を切ったように「カルト」問題が報道されています。
統一教会は、もう過去のものになったのかと思っていましたが、より深く広く日本社会に浸透していたことに驚きます。
SNSでの幸せそうな笑顔や、インスタ映えする綺麗な写真が氾濫する世の中のでも、人生の苦相は変わらないのでしょう。
人間はそもそもが深い迷いと心の闇を抱えている存在なのだとおもいます。
なので法律を改正したところで、「カルト」問題はそう簡単には無くなるものではないでしょう。
近藤元講師のブログにも「カルト」についての投稿がありました。ほとんどが引用ですがぜひ読んでみていただきたいとおもいます。
21century-shinshu.hatenadiary.com
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この引用では、「宗教」と「カルト」は異なる、ということがキリスト教関係の宗教者によって述べられています。
「カルト」かそうでないか、という線引きは実に難しい要素をはらんでいると思います。
統一教会の問題で、牧師やキリスト教関係の学者が出てきて「カルト」問題を論じているのを見ると、違和感を感じるのは私だけでしょうか。
自らを「カルト」だと認めている宗教組織はおそらくありません。
つまりこの宗教組織が「カルト」だというのは、基本的に他の宗教団体を含めた外部からの評価なのです。
親鸞会も、同じように決して認めないでしょう。
私が親鸞会に在籍していた時も、「自分たちはカルトではない」と強く主張しつつ「統一教会などの新興宗教はカルトだ」とも言っていました。
常に対話が成立しない、深い溝が存在しています。
現代社会では、既存宗教、新興宗教もあわせて宗教組織に対する不信が存在していると言われます。
それは、一朝一夕で成ったものではなく、一部の宗教者による収奪と信頼に足らない言動の蓄積によって醸成されたものではないかと思います。
政教分離の原則から、政治による宗教団体への規制は及ばず、学校教育でも宗教教育を避けている今日、宗教リテラシーという観点ではほとんど無防備な状態となり、日本は宗教組織による草刈り場と化しているとも言われます。
宗教は人を幸福にするものであるはずなのに、時に宗教組織は人を不幸にします。
宗教組織は世俗的なものを提供させるために、巧みにいろいろな理屈を織り交ぜ、正当化する教義を構築し、称賛と脅しを駆使して人間の心を従がわせてゆきます。
その教義をあやつる宗教者の欲望が肥大化し、収奪が止まず、信者が不幸に陥ってゆく宗教組織は「カルト」であると言えるのではないでしょうか。
そして、負の面が大きくなった宗教組織は人生を壊してしまう場合があります。
先の投稿で、2人の後輩について述べました。
この2人には宗教組織が大きく影響していました。
「光に向かって」という本がたくさん売れているとか、仏教YouTuberの視聴者が多いとかいうことと裏腹なのが、親鸞会の実態ではないかとも思います。
また親鸞会をせっかく退会した方が、また同じような集まりに移っている、という話も最近耳にします。
これはまた、別に論じられるべきかとおもいます。
浄土真宗は「念仏の信心」によって救われ、その行は「称名念仏」だけです。
だから老若男女貧富の差別なく、すべての人が救われるのです。
親鸞聖人が、非僧非俗であると言われたのは、当時の強大な宗教組織そのものに大きな疑問を抱かれていたからでありましょう。