「親鸞会」の卒業と「念仏の信心」のススメ

親鸞会からの卒業と、いろいろな入射角で浄土真宗の領解を取り上げるブログです

㉓ 2人の後輩

 学生時代に、親鸞会のサークルの部長をしていたことがあります。

 2人の心に残る後輩がいました。
 S君は2年下、A君は3年下、2人とも理系の学部で背も少し小さく兄弟のようでした。
 四国出身のA君が1年生のとき「S先輩が自分の下宿で食事を作ってくれたんです」と嬉しそうにいっていました。

 要領よく切り抜けてきた私とは異なり、2人とも学業優秀、純粋、品行方正、堅実、柔和で努力家という画にかいたような模範的な学生部員でした。

 S君は、博士課程まで修了して優秀なエンジニアとなり、大手の研究所でも大きな業績を残し、海外でも評価されるようになりました。
 多忙な激務の中でも親鸞会聴聞を欠かさず、会長の目に留まり、親鸞会の情報化を支えるキーマンとなりました。

 本来の彼の実力からすると、億単位の年収は優に得られるレベルの人物でしたが、彼が大きな業績を上げたとしても本人にはたいした収入が入らないような契約形態だったと聞いています。

 S君は会長からの様々なプレッシャーもあり、数年前、親鸞会の情報化の仕組みが出来上がる少し前に自ら命を絶ちました。
 このいきさつや背景については、多く関係していた人がいるとおもいますので、ここではあえて詳しく述べません。

 S君と同じ理系で、弟のような存在だったA君については、覚えている人も少ないかもしれません。

 A君について思い出すのは、1年生の時はじめて、東岸まさのさんという親鸞会では妙好人(実際は親鸞会ではなく、華光会で救いにあわれた方だそうです)とされていた人のビデオを見て、感動して泣き続けていたのを思い出します。
 正座して下を向いて泣いていたのですが、眼鏡のくぼんだところに涙が溜まり、肩をふるわせながら、眼鏡からあふれても静かに涙を流し続けていました。
  それだけ深い感動があったでしょう。あんな泣き方する人をはじめてみました。

 S君、A君と3人で親鸞会のアニメを販売しにレンタカーを借りて一緒に行ったこともありました。
 
 親鸞会の学生部では、当時学生部の活動が激しくなり、未開拓の大学でダミーサークルをつくり、その大学の学生の振りをして勧誘を行う活動を猛烈に行っていました。
 
 A君は、「仏法も勉強も一番」などという親鸞会のスローガンに踊らされて、大学の研究、バイト、親鸞会の遠方聴聞もさぼらず、自分の大学ではない部長として勧誘に次ぐ勧誘を行っていました。
 要領のよい学生部員はうまく手を抜いていたようにおもいます。
 そもそも講師部でもそんな両立を果たした人はいませんでした。
 
 いつの日か聴聞会場で会ったとき、顔色が土色で悪かったように思いましたが、当時は、全国の夜行バス聴聞と、勉強、バイト、仕事、アニメ販売や勧誘の目標によって、そのくらい疲れているのは普通でしたので、あまり気にする余裕はありませんでした。
 今にしておもえば、もう少し状況を聞いてやれればよかったと思います。

 A君は、過密スケジュールの中、研究が終わった後、遠い他大学の部室まで自転車で通い、自分がS先輩にしてもらったように、新入部員たちによく料理を作っていたそうです。
 
 A君は、1996年のある日、部室で過労で亡くなっていました。
 ある学生部員が部室に入ったとき、すでに息絶えていたそうです。

 そのことは、講師部でもあまり大きな話題になりませんでした。
 担当講師が、「いやー葬儀に行ってきましたけど大変でしたよ、A君が両親にいつも手紙を書いていたので、両親も特に問題にされず助かりました」
 みたいなことを、少し笑みを浮かべながら言っていたように記憶しています。
 言葉にならない違和感を感じたように思います。

 思えば親鸞会は、たくさんの純粋な青年の人生をすりつぶしてきました。

 少なくとも私は、この2人の後輩を忘れてはならないのだと思います。 
 南無阿弥陀仏