前回に続いて、「カルト」について述べたいとおもいます。
親鸞会を退会した方が、同じような集まりに移ってしまっている、という話を最近耳にします。
それらの中には、私も参詣したことがある集まりがいくつかあります。
ただ、それらの集まりが親鸞会と同様かというとあまりそうは思えませんでした。
親鸞会のような、大学でのダミーサークル活動や、ネットでの正体を隠した組織的な勧誘活動というのはほかには見られません。
また統一教会さながらの過度の献金、「命がけの報恩」、反対する家族や友人を群賊悪獣と呼び捨て、他のすべての宗教を攻撃する、などは親鸞会の独特の組織文化で、過去から今に至るまで基本的に変わることがありません。
本願寺やほかの浄土真宗の聞法の集まりでは、そのような社会的な逸脱を感じることはほとんどありませんでした。
にもかかわらず、親鸞会を退会した方がまた同じような感じである、などという話はなぜ生じているのでしょうか。
別の角度から、「カルト」という用語について考えてみたいとおもいます。
「カルト」は宗教者もしくは宗教組織への依存が、極度の共依存となっている状態ではないかと思います。
信者は宗教者に依存し、宗教者(とその宗教組織)は信者に依存します。
お互いに依存しあっているので共依存です。
宗教者は、信者がいなければただの人ですので、相互にお互いを必要としています。
「カルト」はその共依存の関係が、まともな社会生活が送れないとか、場合によっては命にかかわる、というような異常な状態にまでなってしまっているようなものではないかと思います。
アルコールや薬物依存と異なるのは、相手も相互に依存する関係にあることです。
夫婦関係におけるDVや、企業内でのパワハラなどと構造は似ていますが、宗教者(あるいはその宗教組織)は神仏という聖なる仮面を被っているのでより複雑で、他の入り込むスキのない濃密な関係になるのだとおもいます。
自分自身を思い出してみると、いろいろとおかしなことに気づきながらも親鸞会を辞められなかった理由の大きなものは、依存を断ち切るのが怖かったということだったと思われます。また親鸞会を辞めて、非常に苦しかったことの一つのは、依存先がない状態だったように思います。
それから、依存する先を探している信者と出会ったことにより、宗教者も共依存に陥ってゆくということがあり得るのではないかと思います。
つまり共依存の関係の中で、宗教者自身も変質してゆき、「カルト」的な依存へと深まってゆくことがあるのではないか、と考えています。
ある宗教者の性質を考えるに、嫉妬心と依存性に注目する必要があるように思います。
信者が自分のところを去るときに、その本性があらわれるのではないでしょうか。
仏教の「法」は宗教者の所有物ではありませんし、他のところで聞きたい、ということは信者の自由です。
またその信者が幸せになるなら妨げる理由はありません。
しかしながらその時、他の宗教者の悪口(法論ではなくいわゆる悪口)を言ったり、邪魔するようなことがあれば、それは宗教者の嫉妬心と依存性から生じている可能性が高いように思われます。宗教組織の他のメンバーを使って、妨害したり罵らせたりするのも同様でしょう。
人に嫉妬の醜さを説きながらも、自身の嫉妬心が非常に強い宗教者は存在します。
そのような宗教者との共依存に陥ってしまうと、容易に依存関係から逃れることができなくなるように思います。
やがて「カルト」的な状態につながりかねないのかもしれません。
浄土真宗では、「知識帰命」と言われるものがそれに近いものではないかと思います。
親鸞会における共依存から抜け出したようで、また別のところで陥る可能性はすべての退会者にあり得るでしょうし、浄土真宗の教義にはそのような共依存の危険性のある信仰構造が内在しているとも言われます。
この点については今日の宗教問題としてより深い分析が必要ではないかと思いますが、今回はこのくらいにしておきたいとおもいます。
浄土真宗の「念仏の信心」は、何一つ依存できるものがなく、つかむものがらもありません。
「ただ念仏」する相に「信心」があります。
親鸞聖人が、「弟子一人も持たず」「本尊や聖教を取り戻してはならない」と言われた深い御心を頂き、今日の浄土真宗を考えたいと思います。