「除名」について、少し書き足りないことがありましたので前回の投稿を(中編)にしまして(後編)を書きたいとおもいます。
親鸞会の「除名」は、組織の中では最も重罪という扱いなので生易しいものではありません。(一旦、組織の外に出るとたいした衝撃力もないのですが)
近藤元講師とは、一緒に「除名」になった後、何度か会ったのですが、それっきりでした。かなり後に亡くなったと聞いて驚いた記憶があります。
近藤さんのブログを整理していたら、以下の投稿を見つけました。ぜひ皆さんもリンクの先を読んでみて頂きたいとおもいます。
21century-shinshu.hatenadiary.com
親鸞会で重職に就き、長年貢献した近藤さんは、講師部を退部した後、高森会長に阿弥陀仏の救いにあったという電話をしたと言っていました。
しかし「除名」の後、親鸞会から機関誌「顕真」でこんなことを書かれ、それに対し感情を押し殺してコメントを書いていました。
言霊ということは仏教では言いませんが、親鸞会でも「天に向かって吐いた唾が自分に降りかかってくる」というようなことが言われていたように思います。
人を呪い、罵り、傷つける言葉を吐いたならば、その言葉は必ず自分をも傷つけます。
この「D」という人は、15年も経った今でも同じようなことを言い続け、書き続けているのだろうか、と思います。
自分の間違いに気づいて、悔い改めるていることを念じます。
私が、吐いた言葉の恐ろしさを最も思い知ったのは皮肉にも、善に向かおうと全力を尽くそうとした親鸞会の日々でした。
これと同じようなことを、やめていった人に対し言っていた自分を思い出します。
そのたびに苦しく、つらい気持ちになりましたが、正しい教えを伝えているという正義の名の元に厳しい言葉を吐き続けていました。
そして周囲を傷つけ、自分の心が深い闇に沈んでゆくにつれ苦悩が深まるのを感じていました。
親鸞会では、「除名」した人に対し憎しみと侮蔑を込めて「シロアリ」と呼んでいることを知りました。
「シロアリ」と呼ぶのは、自分たちの財産である会員を食い散らかす、ということなのでしょうか。
なぜこんな無慈悲で常識では考えられない言葉を、昨日までの法友に浴びせることができるのでしょうか。
仏教を説いている団体ではない、ということを自ら証明しているようなものです。
自分たちだけが正しいという間違った正義を振りかざして、本願寺の門徒を「シロアリ」のように食い散らかし、親のスネをかじっている大学生を正体を隠した勧誘で「シロアリ」のように食い散らかしてきたのは、そもそも一体誰でしょうか。
まさに闇と迷いの中から発せられている言葉であり、自分たちの教えに自信が無いことの現れのように聞こえます。
親鸞聖人は、門弟の信楽坊が去ったとき、与えられた御本尊や御聖教を取り戻そうとする蓮位坊に対し、
「本尊や聖教を取り戻すようなことはすべきではありません。
念仏の法は、親鸞が授けたものでなく、阿弥陀如来よりたまわったものだからです。
親鸞には、弟子は一人もおらず、ともに阿弥陀如来のお弟子である同行です。
本尊や聖教は人々を教え導くために、阿弥陀如来によってあたえられたものであって、親鸞があたえたものではありません。
したがって私のもとを去ったからといって、それを取り返すべきではありません。
もしも本尊や聖教を山野に捨てたとしても、その場所の生きとし生きるものが、救われるご縁になるのです。」
と申され、弟子・同行の争いを戒められました。
親鸞聖人の、阿弥陀如来の深い慈悲から発せられたこのお言葉は親鸞会の人たちも聞いて知っているはずだと思います。
親鸞会の講師や会員の皆さんは、退部した講師を呼び捨てにしたり、「除名」された人を「シロアリ」呼ばわりするような負の言葉は、憎悪の連鎖しか生まず、親鸞聖人の教えを伝えることには決してならない、という当たり前のことにどうか早く気づいて頂きたいと思います。
また、親鸞会を退会した方の中にも、他の聞法の集まりの間違いを指摘し、名指しで謗る場面にたびたび出会います。
自分の集まりだけが正しく、他は間違い、という否定的な話もよく耳にします。
なんだか同じような闇に包まれたままであるように感じてしまいます。
浄土真宗の教えは、説き難く聞き難いものですので、言葉の端を捉えて、その法が正しいのか間違っているのか簡単に判断できるものではないとおもいます。