「親鸞会」の卒業と「念仏の信心」のススメ

親鸞会からの卒業と、いろいろな入射角で浄土真宗の領解を取り上げるブログです

㉑「除名」ということ(中編)

 前回に引き続いて「除名」と言うことについて考えてみたいとおもいます。
 親鸞会では、「除名」が一番重い処分とされていますが、これは親鸞会に限ったことではありません。

 真宗大谷派の僧侶高木顕明は、1910年「除籍(僧籍削除)」の処分を付されました。
 その後、高木は戦時中の大逆事件により、幸徳秋水らとともに死刑判決を受け無期懲役となり獄死しました。
 大逆事件とは、天皇の暗殺を企てたという「思想の弾圧」の理由によって、24名が死刑(翌日、内12名は無期懲役)とされた事件です。 
 和歌山県新宮市にある「浄泉寺」の住職であった高木顕明は、多くの被差別部落に住む人々と出遇い、差別問題に取り組み、非戦・平和を訴え続けました。 
 この時の処分は家族にも及び、一家が寺から退去させられる重いものだったそうです。
 死後80年余を経た1996年4月に、ようやく真宗大谷派から僧籍復帰の名誉回復がなされました。

 私の場合は、親鸞会に「除名」されても、少しがっかりする気持ちはありましたが、苦しみどころかむしろ、精神的、物理的な束縛から解放さる安堵感の方が大きかったように思います。
 金銭的、時間的な負担がかなり減り生活は向上し、いろいろな浄土真宗法話にも自由に参詣できるようになりました。
 現役講師部や富山に住んでいる方の場合は事情が異なるかもれませんが、私にとっては、獄死した高木顕明やその家族が受けた苦悩に比べるべくもありませんでした。 
 むしろ、親鸞会に二度と関わることはないという証明を、自らおこなってくれたので、いろいろな意味でプラスの要素のほうが多かったように思います。

 「除名」になったあとに、親鸞会法話に参加したことがあります。

 数年前にある講師の好意で調整をしてもらい、二千畳の報恩講行事に参加させてもらいました。
 その講師も私が「除名」になっていたという認識はなかったようで「除名」の理由を確認してもらったのですが、やはりよくわかりませんでした。
 
 その報恩講では、昔見知った方とたくさん会うことができて懐かしかったです。
 しかし親鸞会の会員に再び戻ってまた、あのゴールのない求道の日々に戻ることについては、全身が全力で拒否したのを覚えています。
 
 後日、会長が「彼来とったのか」と喜んでいたという話を聞きました。
 ところが、組織を通じて「来てはならないものが来ていた」というお達しがあったようでした。
 別の担当講師から「君は何をやったんだ、ちゃんと聞かなあかんよ」などと意味のよくわからないことを言われ、以後の参加は禁じられました。

 親鸞会の「除名」などというものは、このようなもので、子供のいじめ以下のようにも感じました。

 いろいろな出来事が忘却の彼方に消えようとしていましたが、それでも「除名」されたということに何かを見出すことができないかと考えました。 

 自分でやめる「退会」と「除名」の相違は、自分で決めるか、自分の意思と関係なく通告されるものかということではないかとおもいます。
 
 過去にどれだけの期間、いろいろなものを犠牲にして活動に参加したのか、どんな言い分があるのか、など関係なく一方的に「除名」は宣告されます。
 理由もよくわからず、納得できるかも関係なく切断される、これは「死」の疑似体験に近いものだな、と感じたことがあります。

 さらにそれは南無阿弥陀仏」に遇うということにも、通じるところがあります。
  
 浄土真宗は、知識の指示に従っていれば横の線を進んでゆき、やがて縦線にたどりつくようなものではありません。
 宗教組織に所属しているうちに、だんだん罪悪が知らされ、やがてジゴク行が知らされて極楽行の身に「ハッキリ」なって大喜びになるはず、という予定概念的なものでもありません。

 南無阿弥陀仏」という完成した法に出遇うのに、自分の意思や状態、予定概念などは関係ありません。
 
 私の「除名」は、どれだけ呼んでも逃げ続け、まともに聞こうともせず、グズグズし続け、何も答えない私への、阿弥陀如来の一方的な召喚であった、と感じます。

 知識や組織への依存という私の迷いを断ち切って、阿弥陀如来は、称名念仏の勅命となって飛び込んできてくださいました。
 
「除名」になっても、私があたたかい慈光の中で前にすすむことができたのは、すべて「南無阿弥陀仏」のはたらきのうちであったからでありましょう。