「不浄説法」ということについて書きたいとおもいます。
「不浄説法」とは、
「自己の名誉や利益のために教法を説くことであり、誤った教法を説くこと」
とされています。
宗派によって少しづつ定義が異なりますが、趣旨は一緒と考えてよいとおもいます。
善導大師は「邪命説法」という言葉を用いられ、
「不浄説法して利養活命することであり、間違った法を説いて利益をあげたり生活したりすること」
と言われています。
「自己の名誉や利益のために法を説いている」のかどうかは本人にしかわかりません。
布教師が自分で「私が法を説いているのは自分の名誉と利益のためです」などと公言するはずもありませんので、表向きは「聞く人の幸せのため(自己を犠牲にして)」法を説いているのだ、ということになっていることでしょう。
金と宗教というのは古くて新しいテーマだとおもいます。古代から人は自分の信仰に対し救済を求めて金銭や品物を差し出してきました。
釈尊の時代のサンガは、布施で成り立っていましたが、出家者は生活に必要な最小限のものを除いて財を所有することは許されませんでした。
インドには「人間が生きる必要最小限のものしか受け取らずに、必要のない分は他の人に残しておくべきである」という思想があるそうです。
人間の欲望は無限に膨らみます。
宗教者が、聖なる仮面を被って自己の欲望を正当化し多くの金品を収奪する、という構図は昔も今も変わらないことなのかと思います。
親鸞会は組織的な集金システムを確立し、統一教会さながらの強引な献金活動を行ってきました。
かつての親鸞会講師部員は、「自分は信心決定していないので自分の先生の話を聞いてください」と表明し、「話者であると同時に聞法者である」という前提で話をしていたとおもいます。
その点で、「不浄説法」かどうかの責任は会長が一身に背負ってきました。
しかし最近のYouTubeでの親鸞会講師の法話を聞くと、「ハッキリした」と公言していることに驚きました。
数万人の登録がある講師はYouTubeから多額の収入があるとも聞いています。
そのYouTuber講師の、昔とは別人のような勝ち誇ったような恍惚とした表情も気になりました。
このブログでは、浄土真宗の信心は「ハッキリ」するようなものではない、ということを述べてきました。
そのYouTuber講師の「ハッキリ」した、というのは単なる想像かあるいは浄土真宗とは異なる体験でしょう。
この先も、ありもしない「ハッキリ」体験を主張して、YouTuber登録者数を誇ったり、多額の金銭収入を得る布教者が次々に現れることを予感します。
ある元会員から「会長が亡くなった時に、絶望して信心いただけるかも?地獄に堕とされてそこで阿弥陀様にあえるのかも?みたいな期待が会員を覆ってる」という話を聞きました。
このような心情の人があることは理解できますが、会長が亡くなったとしても特に心境に変化がおこることなどないでしょう。
ましてや絶望して救いにあえるかも、などというのは妄想に近いものです。
これからも多くの方が親鸞会を退会されるでしょう。
歎異抄第18章では、「財施の多少で死後に大小の仏の違いが生ずる」などという邪義はいやしく、おかしいことである、と歎かれています。
会費の順番に並ばされたり、バッチの色を金色とか銀色に変えたりして多額の財を募ることも同じようなものです。
多額の財施に慣らされてきた親鸞会の退会者は、別のところで聞くようになっても比較的多くの金銭を払うそうです。
それ自体は必ずしも悪いことではありませんが、布教者からすると、ある意味おいしい存在なのかもしれません。
善導大師が歎かれているように、長い仏教の歴史ではこのようなことが繰り返されてきたのでありましょう。