「乃至一念」について書きたいとおもいます。
「乃至一念」は、
『大無量寿経』の中の「本願成就文」「下品上生」「弥勒付属文」3か所にあります。
法然聖人は、「乃至一念」は3つとも「行の一念」だとされています。
親鸞聖人は『教行信証』では「本願成就文」は「信の一念」、「弥勒付属文」は「行の一念」と釈され、もう一つは取り上げられていません。
ここで留意すべきなのは、
法然聖人と親鸞聖人は同じ「行信」の救い(「念仏の信心」)を説かれていることです。
親鸞聖人の教えは「行信不離」です。
「行」を離れた「信」、あるいは「信」を離れた「行」はありません。
つまり「行の一念」も「信の一念」も、私の上に「名号」がはたらく「いま」が説かれているのです。過去の一念でも多念の未来でもなく、「いま」の真実であると言い得るでしょう。
『大無量寿経』には、過去や未来のことではなく、「いま」私の上にはたらく「名号」の法が説かれています。
「信の一念」が先で「行の一念」が後であるという解釈は、人間の思考で『大無量寿経』を前から順番に読んだものです。
なので「本願」はまだ成就していないので信心決定したら「本願成就」する、という解釈は正しいものではありません。
過去に「本願成就」したということを聞いたから有難い、というのも間違いです。
「本願成就」すなわち「法蔵菩薩の成仏」は念々に念仏者の上でおこる真実である、と味わうことができるでしょう。
また『歎異抄』第11章に「誓願名号不二の章」があります。
「誓願(本願)」と「名号」が別のものだなどとい言って驚かせようとするう布教者はとんでもないものである、と歎かれています。
「名号」は「いま」届いているのにもかかわらず、まだ阿弥陀仏のお手元にあるから頂かねばならない、などと遠くに眺めるのも同様です。
「本願」と「名号」を別々に切り離すのは人間の分別による思考であると言えると思います。
浄土真宗の「念仏の信心」は、
「行信の一念」の「いま」の相続が説かれていると領解しています。