親鸞会の卒業と「念仏の信心」のススメ

親鸞会からの卒業と、いろいろな入射角で浄土真宗の領解を取り上げるブログです

㉗「多生の目的」について

「多生の目的」について述べたいとおもいます。

 近藤元講師のブログに以下の記事がありました。わかりやすい視点で書かれているのでぜひ読んでみてください。
21century-shinshu.hatenadiary.com

 「多生の目的」として、未来世に渡る求道を説くのが親鸞会です。

 聖道仏教では、「今生で功徳を積んで来世は高い位の僧侶に生まれ、修行を継続してやがて仏に成る」という教えがあるようですが、
「いま・ここで」救いに遇う「平生業成」「現生正定聚」の浄土真宗とは異なります。

 親鸞会のある幹部講師が、「信心決定は来世だ」という発言をしているそうです。
 直接聞いた訳ではありませんが、複数の人から「大変ショックだった」という話を聞きましたので、これに近い発言をしているのでしょう。

 その論拠は、親鸞会の来世に渡る「多生の目的」という説ではないかとおもいます。
 
 これは「宿善」の解釈の間違いとも通じるところがあります。 

 「宿善」についてはここでは深く立ち入りませんが、親鸞会では無理に「宿善」を未来の行為にもあてはめたことにより、浄土真宗との本質的な相違が生じました。
 「宿善」が厚くなってゆく果てに、やがて往生できるという「宿善往生」は、「いま・ここで」救われる横超の「念仏往生」と異なる説です。

 そして「多生の目的」という「南無阿弥陀仏」のはたらきを否定するような独自の説も生み出されたのだと思われます。

 このように書きますと親鸞会では、聞き間違いだと言われるかも知れません。

 ある親鸞会の講師が、元会員に「親鸞会は救われるためには善(財施・布教活動)をせよとは一回も言っていない、聞いたものの聞き間違いである」と言い放ったそうです。
 数十年間も多額の財施や布教活動を一生懸命行ってきたその方は、悲鳴にも近い怒りをぶつけていたそうです。

 財施や布教活動が「宿善」になって救いに近づくのでなければ、どうして人生を犠牲にしてまで親鸞会の組織活動に没入するでしょうか。

 仕事をやめて講師や職員になったり、家を売って財施をしたり、富山に引越して組織に殉じるのはそれらが「宿善」になって救いに近づくと思われたからではないのでしょうか。 
 そこには、たとえ今生は間に合わなくても「多生の目的」なのだから、少しでも「宿善」を厚くして救いに近づきたい、という切ない願いがないでしょうか。
 少なくとも、昔の私にはそのような思いが心の底にあり、周囲にもそのようにすすめていました。

 組織の運営上与えられた高い目標を達成するために懸命に活動している、職業としての講師部員の立場もわからなくもないです。
 しかしながら、目標を達成するときには、救いに近づくような勧誘をして、喉元を過ぎたら「そんなこと言っていない」「聞いたものの聞き間違いだ」などと言い放つというのは詭弁にもほどがあるように思います。

 せめて「私もそのように思っていたし、言ってしまっていました。私も聞き間違えていました」と正直に言えないものでしょうか。
 仏法者どころか、一般社会の常識からも著しく乖離しているように思うのは私だけでしょうか。

 最近では、地震で浸水被害のあった正本堂修理のため「2000畳に布施をした人には遍照の光明があたっています」と財施を募っているそうです。
 いろんな言い方があるものだなと感心します。

 財施や布教活動の多少は、言うまでもなく阿弥陀如来の救済とは無関係です。

 来世に渡る「多生の目的」という異説は、直ちに捨ててください。

 南無阿弥陀仏」という救いの法は「いま・ここに」届いています。