「親鸞会」の卒業と「念仏の信心」のススメ

親鸞会からの卒業と、いろいろな入射角で浄土真宗の領解を取り上げるブログです

⑬「歓喜」について

歓喜」について書いてみたいとおもいます。

 ⑪「信心」について、で浄土真宗の「信心」は「疑いが無くなる」ということであり意業とは直接的な関係がないことを述べました。

 これについて親鸞会の元講師や会員の方から、信心決定したら「大歓喜がおこるのではないか」「飛び上がるほどの大慶喜の身になれるはずだ」という指摘がありました。

 ここで留意を要するのは、「約仏」「約生」という概念です。

 「約仏」とは仏の救済を仏の側のはたらきとしてあらわすこと
 「約生」とは仏の救済を衆生の側からあらわすこと

 となります。

 親鸞聖人の『教行信証』は「約仏」の書です

 阿弥陀如来が私を救済するためにどのようにはたらいているのか、ということが書かれているのです。
 
 この視点を「約生」すなわち凡夫の側にもってくると根本的な読み違いをすることになると言えます。

 「信心歓喜」「獲信見敬大慶喜」などもあくまで「約仏」で説かれていると受け取るべきです。

 これらのお言葉は「名号」のはたらきであり仏徳を表現されているということになります。 

 親鸞聖人は本願成就文の「信心歓喜」の歓喜」は「無疑心」であるとされています。
 ここで阿弥陀如来の救済への「疑い」が無くなる信の一念と凡夫の意業の変化は直接的な関係はありません。
 凡夫の意業が信の一念で大喜びの心になる、とすると「約生」となり、親鸞聖人の「歓喜」の釈とは決してイコールにはなりません。

 また本願成就文の「歓喜」は本願文では「欲生我国」ですが、
「我国(極楽)へ生まれ(往生)させる」「(生まれさせたいと)欲う」はすべて「名号」のはたらきであり「約仏」と受け取られています。
 この世で自分の心が、「ハッキリ」生まれ変わるなどという解釈は、間違いと言えます。

 加えまして「大」「小」という語についても留意する必要があります。
 親鸞聖人は主に「大」を如来の側で用いられ、「小」は凡夫の側で用いられます。

 すなわち「大慶喜」は「約仏」の上のことであります。

 信心決定したら凡夫の意業が「大慶喜」の心境になると言うのもやはり「約生」の解釈となります。これも大きな誤解につながります。

 また例えば「信心決定したら必ず大きな歓喜が起こる」とすると「大きな喜びの心が起こらなければ信心決定とは言えない」という解釈につながります。

 あるいは「救われたら必ず喜ばずにおれない」とか「喜びが起きないのは助かっていない証拠」などというのも同様になります。

 このように意業の喜びを救いの条件とすることを「歓喜正因」の異安心と言われます。
 
 それでは「約生」ではどう受け取ればよいでしょうか。

 歎異抄第9章では、
「天におどり地におどるほど喜ばねばならないことを、そのように喜ばないわが身を思うにつけても、いよいよ往生は一定の身である」とされています。
 
 このお言葉をひねくりまわして「喜ぶ心がない煩悩具足の私を救うというお約束の通りに救われたのだから、やっぱり歓喜がおこる」などという無理な解釈をする必要はありません。
 
 ここでは「喜ぶ心もない」「楽しむ心もない」のが凡夫である、と字義通り頂くべきでありましょう。

 たとえ法悦のような感情があったとしても、煩悩具足の凡夫の心におこる喜びは「信心決定」の証拠になり得ないのです。

 「往生一定」の確かな如来のはらたきは、称え聞こえている「名号」よりほかにありません。

 「大歓喜」「大慶喜」が「ハッキリ」と凡夫の心の上に生じなければ救われていない、などとするのは大きな誤解のもとになります。

 このような主張はその布教者の想像からくるものであり、浄土真宗の「信心」とは異なるものとなります。
 
 その誤解が、獲られることのない喜びを意業で果てしなくつかもうとし続ける自力のワナに陥らせるであろうことを申し添えておきたいと思います。