「親鸞会」の卒業と「念仏の信心」のススメ

親鸞会からの卒業と、いろいろな入射角で浄土真宗の領解を取り上げるブログです

⑫「なぜ生きる」について

 「なぜ生きる」についてです。

 「なぜ生きる」は「仏法」であり「どう生きる」は「仕事・学業・政治・経済・科学など」である。
 「なぜ生きる」が目的であり「どう生きる」は手段である。
 「なぜ生きる」は「どう生きる」より重要である。
 などという親鸞会の論理があります。

 この言葉の用法は浄土真宗あるいは仏教と相入れ難い部分があると考えています。

 現代人に通じる一定のメッセージ性があるようにも思えますが、かえって浄土真宗の理解を遠ざけることにもなり得ると思うのです。

 「どう生きる」という用法には「生きる」とありますように、自分の力や能力で自立的に生きるという近代的な人間像の要素があるように思います。

 仏教は「無我」を説く教えです。
 すなわち自分が孤立して一人で生きているのではなく、周囲との関係性のなかで支えられて存在していることが教えの根本にあります。
 近代的な「自我」とは相入れない教理であるとも言えるでしょう。

 仏教を正しく学んだならば「どう生きる」「なぜ生きる」ということに留まらず、自分が「どう生かされているか」が教えられている宗教であることが分かってくるはずです。

 その仏教の「無我」の精神性は時代や宗派を超えて普遍的なものであります。
 浄土真宗の「念仏の信心」も「無我」という教えと矛盾したものであるはずがありません。
 
 「念仏の信心」はお念仏を申す日常の生活の中で、周囲への感謝と自己の卑小さを知らされてゆくものでもあると思います。
 その日々のなかで「どう生かされているか」を知らされるほど、小さな自己が大きなはたらきによって支えられていることへの感謝が生じてくるのです。

 「なぜ生きるか」が大切だからと言って自分の周囲を犠牲にしたり、他を踏み倒してでも自己の救済を求めるというのは、仏教と遠く離れたものです。
 また「なぜ生きるか」以上に重要なことはないのだからといって自分たちの教団の正義を果たすために、他を罵倒し相手を傷つけても構わない、などという考え方も仏教と本質的に相違することになります。

 それでは、わたしは「なぜ生きる」のでしょうか。
 それは「信の一念」でハッキリと知らされるようなものではありません。
 
 「なぜ生きる」という問いも「なぜ生かされているのか」へと次第に深まってゆくべきものです。
 そして「なぜ生かされているか」は「どう生かされているか」という仏教の「無我」の教えと切り離されるものではなく、相互に溶け合っているもののように感じます。

 「念仏の信心」を聞かせていただきますと日々の凡事の中で、わたしのいのちは「南無阿弥陀仏」のお与えものであることが知らされてまいります。

 わたしが「いま・ここに」「なぜ生かされ・どう生かされ」ているのかが知らされるほどに、親鸞聖人のお言葉を少しづつ味わわせて頂くことができるようになるのでありましょう。