今回は「信心」について書かせて頂きたいと思います。
親鸞聖人の教えは、「信心正因」であり「信心」によって救われると言われています。
「信心」の話を避けていては浄土真宗の領解について述べたことにならないとおもいますので、このテーマを取り上げさせて頂きたいと思います。
浄土真宗の「信心」は言葉にすればするほど遠ざかるように思います。
最小限の言葉で「信心」を定義するとしたら「疑」の対義語である「無疑」ということになるでしょう。
本願が成就し完成している「南無阿弥陀仏」の救いの名号法に「疑い」が無くなった状態、と言い得ます。
ここで「疑い」の無くなる「信の一念」と私たちの意業(「明るい心」とか「楽しい心」など)とは、直接的な関係がないことに留意する必要があります。
浄土真宗の「信心」になにか具体的なもの(「実有」)を頂くというようなイメージを持たれているならば、それは異なるものです。
親鸞聖人は主著『教行信証』に、御自身で『顕浄土真実 教行証文類』という題号を記されています。
浄土真実の救いの「教」「行」「証」を明らかにされているということなのですが「信」は題号に含まれていません。
これは「行」から「信」を開いたからであると言われます。
この御心をよく考えてみる必要があります。
親鸞聖人は、『教行信証』の「教巻」「行巻」「証巻」に以下のように「出体釈」(体:ものがら)を記されています。
「教巻」:真実の教『大無量寿経』
「行巻」:大行(名号)を称すること
「証巻」:無上涅槃の浄土
しかしながら「信巻」には「出体釈」が記されていません。
つまり浄土真宗の「信心」には「体:ものがら」がない、ということになります。
あえて「信巻」の「体」を探しあてるならば「行巻」の「大行」であるとされます。
私が称え聞いている「名号」以外に「信心」はない、とも言い得ることになります。(「行信不離」とも言われます)
称え聞いている「名号」以外に「信心」がないならば、私の意業に何か具体的なものを受け取るということにはならない、ということを理解していただけるのではないかとおもいます。
これは「大宇宙の宝を丸もらいする」「善根功徳のかたまりを頂く」という具体的な「実有」を受け取るイメージは浄土真宗の「信心」と本質的に異なるものになります。
何かを頂こうとする作為は自力であり、そのイメージを捨てない限り「南無阿弥陀仏」を聞き入れることは出来ません。
浄土真宗の「信心」の語源についてですが『大無量寿経』及び異訳経典・サンスクリット版『無量寿経』に、今日我々が使用している「信仰」にあたる用法はないといわれます。
サンスクリット語で「信心」つまり阿弥陀仏の本願の「信楽」にもっとも近い言葉は「プラサーダ(prasāda)」であろう、というのが定説となっています。
「プラサーダ(prasāda)」は「水のように澄んだ心の平静、静かな喜びや満足を感じられる」の状態を指しているとされます。
ここには、親鸞会で言われるような「躍り上がるほどの狂喜」や「本願まことだったと涙を流し続ける」などのような熱狂的・狂信的な激情は想定されていないと言えるでしょう。
しかしながら阿弥陀仏の救いを、
「凡夫の心を「プラサーダ(prasāda)」のさとりに生ま変わらせる」と解釈するとこの世で仏になれる、ということになってしまいます。
それは大きな間違いの元になります。
阿弥陀仏の本願の「若不生者」の「生」はあくまで「浄土に往生させる」という意味であり、この世で私の意業を「信楽」に生ま変わらせるという意味ではありません。
浄土真宗の「信心」について親鸞聖人は「已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」『正信偈』と教えられています。
真実の「信心」は常に煩悩の雲や霧が覆われていると言われています。そのため明るい太陽のような日本晴の心となるのではなく、あたかも明るさが雲の下にもれ届いているようであるとされているのです。
それは「名号」の「プラサーダ(prasāda)」のはたらきが、夜明け前の暁のように静かに私を照らしてくださっている「疑い」の無い状態であると言えましょう。
私の上で確かなものは称え聞いている「名号」だけであり、その救いの法を「疑い」なく聞き入れた状態が浄土真宗の「信心」であるということを、少しでもご理解いただければ有難くおもいます。