最近頂いた感想について、感じたことを書かせていただきたいとおもいます。
ある親鸞会の講師の方から、
「親鸞会については、私のほうが詳しく分かるので、教えて頂かなくても大丈夫かと思います。もっと(ブログ筆者の)何かユニークな強みが出るような情報発信をして頂きたい」と感想をいただきました。
先の投稿で申し上げましたとおりこのブログは途中で何度も書き直しています。
しかしながらユニークな強みどころか、言葉を付け加えれば付け加えるほど、浄土真宗の領解から離れるように感じています。
また親鸞会のある幹部会員の方からは「一念覚知」に関する投稿について、
「相対の意識で絶対的なものは認識できない、ということと同じ話の表現を変えているだけのように思います。親鸞会が正しいとは思っていませんが、少なくとも上記の話は前提と認識されたうえではないか」
との感想を頂きました。
自分の書いている文章が、一人よがりのものになっていないかよく検証し、考える必要があると思いました。
以前、長く親鸞会に在籍しつづけられる理由はなんだろうかと想像してみたことがあります。
宗教的な感動、倫理感や正義感、損得打算などでしょうか。
こういった感情には、人ぞれぞれの強さと深さがあるようです。
一方で退会した人たちにもいろいろな理由があると思います。
嫌な思い出、教義や組織への不信、ある種の被害感情、宗教的感動が薄れた、などもあるように思います。
こういった負の感情の強さと深さも、人それぞれのようです。
プラスとマイナスの差引でプラスの要素が多いという人が親鸞会に残っているのだろう、などとつまらないことを考えていました。
記事を読んで頂いてる方の中にも「響きあえる方」「冷ややかな方」「嫌悪される方」など種々の反応がありました。
私を含めてどなたも一言で片づけられない深い業の世界で、それぞれ業が作り出した世界に生きていることを思います。
「我が教えこそが真実であり他は間違いである」とするのはいわば宗派の業でありましょう。
人間の業が生み出した分別を越えてお互いを受け入れるのは、容易なことではないと日々思います。
「南無阿弥陀仏」はあらゆる宗派の業を超えて真如から届いており、我執にとわわれ、自他や正邪を分別する愚かな自己を照らして下さっています。
「いま・ここに」称え聞こえている「名号」だけがまことであると仰がずにおれません。