「親鸞会」の卒業と「念仏の信心」のススメ

親鸞会からの卒業と、いろいろな入射角で浄土真宗の領解を取り上げるブログです

⑨「一念覚知」について

 「一念覚知」についてYouTubeなどの動画で、数多くの根拠が出されて論争が続いているようです。 

 親鸞会の元講師の方から、それとは少し異なる観点「認識論」で述べてみてほしいとのことです。

 「一念覚知」の定義を『浄土真宗辞典』では
 「行者は、信の一念に信心を得たという自覚があるとし、その具体的な日時などを明確に記憶していなければならないとする理解。往生成仏の正因である他力信心の獲得に、行者の意業が関与することになるので、異安心とされる。」

 とされています。ここで以下の二つのことが述べられています。
(1)「その具体的な日時などを明確に記憶していなければならない」
(2)「往生成仏の正因である他力信心の獲得に、行者の意業が関与することになる」
 
 (1)は「実時」(具体的な日時)ということです。「実時」を覚えてなければならないとするのは異安心である、に異論はないとおもいます。
 
 問題は(2)ですが、これは「仮時」(蜂に刺されたとき、頭を打ったときなど)の意業による認識です。

結論を先に申しますと、
 信一念の「仮時」を意業で認識することを信心決定の証拠とするのは、意業の関与を認めることになるので「一念覚知」となります。
 
 あるいは、信前信後の刹那をハッキリ認識できるというのも、意業の自覚ですので「一念覚知」となります。
 
 そもそも人間の意業による認識などというものはあやふやで、あてになるものではありません。
 
 ①「因果論(縁起)」で申し上げたとおり、一切のものは「無我」「空」であると教えられたのが仏教です。自分という存在は時々刻々と変化し続けています。
  しかし人間の認識能力では刹那の変化など認識することはできません。

 ほとけ様の智慧でご覧になりますと、刹那に変化する私は同じ私ではないとされます。 

 刹那に異なる存在となって変化しているが自分が、あたかも同じ自分であるように認識されている有様を「暴流の如し」と言われます。

 それで仏教では現在の自分だけが確実な自分であると教えられるのです。
 
 時々刻々と一切は変化していますし、過去の自分の認識などというものは不確かなものなのです。

 そのような変化しつづける自分が過去に「ハッキリした」というあやふやな認識を真実の救いの証しとすることはできません。 

 また仏教で説かれる「無量劫」「久遠」「刹那」などの時間の単位は、私たちが今日科学的と呼ばれる認識の色眼鏡(哲学用語で「ドクサ」と言います)を通して知覚する時間ではなく「宗教的な時間」であります。

 阿弥陀仏は「無量寿」「無量光」でありますので、時間的にも空間的にも無限のはたらきです。
 
 そのはたらきに有限の自己が「いま・ここに」包摂されている不思議に出遇う宗教的体験の時間表現となっていると受け取るべきでありましょう。 

 それでは親鸞聖人が「時剋 ( じこく ) の極捉」と述べられているのをどのように受け取ればよいのでしょうか。

 私たちの生命は、常に死と触れ合っています。「生死一如」と申しますが生きると死ぬは紙一重です。

 「時剋の極捉」とは、阿弥陀仏が常に死と触れ合っている「命一刹那の衆生を救うはたらきという仏徳」のことであり「衆生側の意業の認識ではない」と言うことができます。 

 人間の智慧で「時剋の極捉」の刹那を「ハッキリ」と自覚できるいうことはあり得ませんので、その認識を強調するのは浄土真宗の信心とは異なるものです。
 
 「信の一念の瞬間を意業で覚知できることが救われる条件」だと思い込むと、行者は未来の「ハッキリ」した意業の変化をつかもうとし続けてしまいます。

 このような意業の所作は自力です。 

 自力は、自分の三業(身口意)による認識、知覚、変化、感情、行為などを信心決定の証拠として握ろうとする一切を言います。

 信一念の「仮時」をハッキリ自覚することが信心決定の条件だとするのは「一念覚知」であることをご理解頂ければと思います。

 浄土真宗では、
 「いま・ここで」念々に称え聞く「名号」よりほかに「往生一定」の証しはありません。