「親鸞会」の卒業と「念仏の信心」のススメ

親鸞会からの卒業と、いろいろな入射角で浄土真宗の領解を取り上げるブログです

⑭「称名念仏」について

 「称名念仏」について書きたいとおもいます。

 親鸞聖人は『教行信証』「行巻」で、
私たちの救いの「大行」は「無碍光如来の名を称えることである」
と明確にお示しになっています。
 「無碍光如来の名」とは「名号」(南無阿弥陀仏)のことですので、ひとまず「称名念仏」のことと素直に頂くべきでしょう。

 この「大行」の解釈について⑦「行信」について、で本願寺派では能行派と所行派に分かれていることを書きました。
 しかしながら、いずれの説であっても能行の念仏はそのまま所行の念仏になりますので、「行巻」で述べられているのは「称名念仏」ではない、などという論が成り立つことはありません。

 「称名正因」の異安心と言われるのを怖れているからでしょうか「称名念仏」に対して慎重になるのを通り越して、拒否反応を示す人さえあります。

称名念仏」に「称功」(念仏をたくさん称える功徳の積累で往生できるとすること)を認めないとしても、「称名念仏」を軽視する態度は親鸞聖人の御心とは明らかに異なります。

 親鸞聖人は「称名念仏」について二つの由来を示されています。

一つは「諸仏称讃の願(第17願)」から来るとされています。
 諸仏方の称える「名号」が、からっぽの私の上でこだまのように反響しているものである、と言うことになります。
 
もう一つは「本願招喚の勅命」であるとされます。
 阿弥陀如来が凡夫である私を呼ぶ「呼び声」である、と言うことです。

 いずれにしましても称名念仏」は私の口から出ているのですが、その言葉は人間の言葉ではありません

 「ほとけ様の世界の、ほとけ様方が、ほとけ様のお言葉である「名号」で、私に呼びかけてくださっている」のです。

 「信の一念」は意業の認識にのらないという投稿を、以前に致しました。
親鸞会の元講師の方から、これに対し「意業にのらないならなぜ救われたと言えるのか、矛盾ではないか」とコメントを頂きました。
 
 私たちは目に見える世界だけが世界のすべてだと思っていますが、仏教では「私たちの目に見えないほとけ様の世界」があると教えられています。

 人間の意業は、変化し続ける不確かなものです。
「目の前に仏が現れた」「心の中で極楽が拝めた」のような観念を「さとり」とすることの危険性を、聖人はよくご理解されていたのではないかとおもいます。

 私たち人間は、ほとけ様の世界とは「名号」というほとけ様のお言葉を通じてしか接点を持つことができないのです。

 阿弥陀如来は、如来のお言葉である「名号」で救うという約束をされています。

 その「名号」の活動する相が「称名念仏となります。 

 そして凡夫の認識の上で確かなものは、称え聞こえる「名号」です。

 信前信後という分け方がありますが、その前後で「名号」の本質が変化することはありません。
 ほとけ様のお言葉である「名号」を受け入れ「ただ念仏」する相が「信心」です。

 また、法蔵菩薩のご往生ははるかな昔でありますが、「いま・ここ」でもあります。

 十劫の昔という宗教的な時間は、私たちの深い業をもあらわしていますので、本願が成就するのは「いま・ここ」であると言い得えます。

 つまり私の往生が定まることで、念々に本願が成就される「いま」が連続してゆくと味わうことができます。

 私たちは目に見える世界こそが確実なものであると思っていますが、親鸞聖人はそれらは「夢幻」のようなものだと言われます。

 そしてこの世のどんな出来事よりも、法蔵菩薩の「いま・ここ」での成仏こそが真実だと領解させて頂いてゆくのではないかと思います。

 それを私に告げる、ほとけ様のまことのお言葉が「称名念仏」であるからこそ、親鸞聖人は「ただ念仏のみぞまこと」であると教えられたのでありましょう。