「親鸞会」の卒業と「念仏の信心」のススメ

親鸞会からの卒業と、いろいろな入射角で浄土真宗の領解を取り上げるブログです

②「因果の道理」(「縁起説」)について

「因果の道理」と「縁起説」ということについて書いてみたいとおもいます。

 

 「善因善果 悪因悪果 自因自果」は「仏教の根幹」であり、「これを否定するものは外道」であるという説があります。

 そして信仰がすすむということは「因果の道理」の認識の深まりであり、(縦線、横線の図)横の線をすすむということであるとします。さらに絶対の幸福になる刹那に「深信因果」できるものとします。

 このような「仏教を信じることは、すなわち「因果の道理」を深く信じることである」などという論理は本当に成り立ち得るのでしょうか。

 

「因果の道理」の考察に入る前提として仏説とは何か触れてみたいと思います。

 

 仏説を狭義の、紀元前5~6世紀ごろにインドの生まれた釈迦という人物が説いた教説であるとした場合、現存する仏教経典のほとんどは仏説ではないということになります。『原始阿含経』の一部のみが釈迦の直説であろうといわれています。

 

 これはすでに学術的に十分論証されていることですのでこれに異論をとなえる学者も僧侶も今日では少なくなっていると思われます。

 では「仏教」経典とは一体何かということですが、『大無寿経』『阿弥陀経』や『法華経』『涅槃経』などの大乗経典はそのほとんどが紀元前後(釈尊入滅後約500年)に編纂されたものです。

 浄土真宗で真実の経典される『大無量寿経』はおおよそ紀元1世紀ごろに成立したという説が最も正しいとされています。

 

 「釈迦一代の教えが7000巻という膨大な経典になった」という説明は、歴史的事実としては正しいとは言えないことになります。

 だからといいまして『大無量寿経』は仏教ではない、などということを論じようとするのではありません。

 

 このような歴史的な事実を確認し積み上げるという作業は、自分の信じている仏教の受け取り方を見つめ直すにきっかけになるのではないかと思います。

 一人の声の大きな布教者が仏説であると断定するものを盲信してしまったり、それぞれの宗派の業に囚われて人生を無為に過ごすことのないように、できる限り歴史的な事実は事実として受け取り、自分の思考や信仰を常に別の角度から見直すことの重要性を理解して頂きたいとおもいます。

 

 釈尊入滅後から100年後に、釈尊教団は分裂したといわれます。(根本分裂)さらなる分裂(枝末分裂)を繰り返し「部派仏教」といわれる分立した諸派の仏教教団となりました。ここまでは仏教史などの本を読めば必ず書いてある事柄です。

 

 「善因善果 悪因悪果 自因自果」という「因果の道理」は、釈尊の直説である『阿含経』には直接的に説かれておらず、部派仏教の一つである「説一切有部派」の説であるとされています。

 「因果の道理」を説明する際「勉強した分だけ点数があがる、働いた分だけ収入が得られる」などという例証は一見わかりやすいですが、その得られる世俗の幸福は「実有」(実際に存在しているもの)と呼ばれるものです。

 

 「因果の道理」を信じて努力精進すれば「実有」である相対的な幸福にも恵まれ、やがて「深信因果」し「絶対の幸福」(無限の「実有」をイメージさせる)の世界にたどり着けるなどとする予定調和的な概念は、様々な仏教の用語を織り交ぜながら作られた教説であると思います。

 

 「因果の道理」は科学主義や経済合理主義とも近い印象があり、人々の世俗の幸福を求める欲望を利用して宗教組織拡大の原動力に転嫁させ得るものと考えます。

 しかしながらこれは、仏教の救いである「涅槃」「無我」と本質的な部分で矛盾し、嚙み合わないものです。

 

 「説一切有部派」の説である「因果の道理」と「実有」の存在を、迷妄であると徹底的に否定されたのが龍樹菩薩でした。

  親鸞聖人は『正信偈』に「龍樹大士出到世 悉能摧破有無見」と述べられ、「有の見・無の見」を迷妄であると破られたと述べられています。

 龍樹菩薩は、すべてのものは「有」でも「無」でもなく、「空」「無自性」(すべての事物は、自性のないものである)であるとされました。

 そして「縁起説」で「あらゆるものが関係性(縁起)によって成立しており、固有のもの(実有)としては存在しない」ことが論じられています。

  

 また世俗の幸福を求める論理について、龍樹菩薩は「無記」(敢えて答えない)とされており、親鸞聖人もその通りに扱われているように思われます。

  

 「因果の道理」は「縁起説」と根本的な部分で相違した説であり、阿弥陀仏による救済の法とも直接的な関係はありません。

 ましてや「因果の道理」が仏教か外道かを分別する「仏教の根幹」であるとは、どのような強弁をもってしても許容されるべきものではないことをご理解いただければとおもいます。