「親鸞会」の卒業と「念仏の信心」のススメ

親鸞会からの卒業と、いろいろな入射角で浄土真宗の領解を取り上げるブログです

③「葬式仏教」について

 「葬式仏教」について書いてみたいとおもいます。

 親鸞会は「今日の浄土真宗は葬式仏教・法事仏教となり衰退の一途をたどっている。この現状を嘆いて立ち上がった」と本願寺を批判してきました。
 
 それは親鸞聖人が「閉眼したら自分の遺骸を鴨川の魚に与えなさい」と言い残されたのを根拠としていました。
 この「葬式仏教」を否定するという原理主義的な主張は、存在意義でもあったと思います。

 本願寺が、親鸞聖人が言われたことに反して墳墓を管理するためにはじまり、葬儀や法事を執り行い教団を維持してきたのだのは歴史的な事実であります。
 
 親鸞会でも会員が亡くなると葬儀の依頼はありました。
 依頼されれば引き受けるというスタンスで葬儀を執り行っていたのですが、生きている間は親鸞会法話を聞く、亡くなったら葬式と墓は寺院で、という方が多かったように思います。
 
 そのうちに親鸞会は、正本堂に納骨堂を造り会員が亡くなった際に親鸞会の葬儀や正本堂への納骨を推進するようになりました。

 先日ある幹部会員が「亡くなった母に会いに親鸞会の納骨堂に行ってくる」と言うのを聞きましました。
 親鸞会の教義では、死者の魂は墓や納骨堂には留まることなく、ハッキリ救われていない人の後生は地獄であり、ほとんどは後生暗いまま地獄行きです。
 なので納骨堂へ亡くなった母に会いに行く、などという考えは出てくることはないように思います。
 
 親鸞会の葬儀の意味について「葬儀は亡くなった人のためではなく、生きている人に法話を聞いてもらうためにやるからよい」とも語られていました。
 
 しかしながら本願寺でも同様の話を何度も聞いたことがあります。

 「親鸞会の葬儀は法を聞くためのものだからよいが、本願寺のは「葬式仏教」であり間違いだ」というのは後付けの説明のようにも聞こえます。
  
  親鸞会原理主義を貫くならば、葬式や納骨をも一貫して否定すべきではなかったのかとも感じます。
  こうして元々の主張を覆すことにより、葬儀についてダブルスタンダードの自己矛盾を抱えてしまったのではないかと思います。

  一方で「葬式仏教」を批判するスローガンは、親鸞会がより普遍的な宗教団体として日本人の間に定着できなかった要因であったようにも思われます。

 人間の宗教心という情念のようなものを無視し、どれだけ高邁な理論で問い詰めたとしても、人々の心に響き共鳴する宗教とはなりえないのではないかと考えます。
 インテリ層が激しい理論で革命を訴えたが、決して一般大衆が大挙して動くことなどなかった、日本の空想的マルクス主義のようにも感じます。
 
 最近の仏教学では「葬式仏教」は堕落仏教であると揶揄することについて、見直すべきであるという論があるようです。

 多額の金銭を得ることを目的とした葬儀は倫理的に問題があるのは事実ですが、葬儀を任される宗教がその国民の宗教であるとも言い得るそうです。

 日本では、キリスト教は結婚式は任されますが葬儀は少ないですし、神社で葬儀というのもほぼ見られません。
 時代が移り変わり、Amazonやイオンで読経の申込ができるようになっても「葬儀は仏教寺院で」というのが、醸成されてきた日本人の宗教的な心情ではないかとおもいます。
  
 親鸞聖人のお言葉を今日の私たちはどのように受け取るべきなのか、そして浄土真宗の葬儀はどうあるべきか、今一度考える必要があるように思います。