親鸞会の卒業と「念仏の信心」のススメ

親鸞会からの卒業と、いろいろな入射角で浄土真宗の領解を取り上げるブログです

④「承継」について

 「承継」ということについて考えてみたいと思います。 

 真宗史では本願寺親鸞聖人の墳墓として始まっています。
 
 その墳墓の管理が覚信尼から覚如上人へ継承され、本願寺が成立し、そして蓮如上人へ承継されました。
 そして本願寺が正当な親鸞聖人の「血脈」を承継した寺院であり、正当な親鸞聖人の浄土真宗の「法脈」をも承継する、という認識が多くの日本人の間での共通のものとなりました。

 親鸞会は教義の正当性に純化して「法脈」こそが重要であるとし、伝統的な「血脈」による承継を否定してきました。
 
 つまり、親鸞会本願寺真宗寺院の「血脈」(世襲)による承継というものに「NO」を称えることを存在意義としてきたのだと思います。
 
 ある時期に、親鸞会でも「血脈」における承継が表明されました。
 真宗原理主義として「法脈」の伝承に純化してきたのに、「血脈」による世襲を表明したことは深く大きな衝撃となったようにおもいます。 
 
 親鸞会は設立以来の理念としてきた、「正しい浄土真宗を伝承するためだけの集まり」である「法脈」である公器(「サンガ」)としての存在意義を、世襲にこだわることで自ら否定したと言ってよいのではないかと考えます。

 そして「承継」においても親鸞会世襲は許されるが、本願寺真宗寺院の世襲は許容できない、というダブルスタンダードの矛盾を抱えることとなってしまったように思います。

 本願寺の「血脈」を否定するということは親鸞聖人の「血脈」を否定することになるのですから、少なくとももっと慎重にその意味が考られるべきではないかと思います。
  
 宗教は長いスパンで人生のすべて、あるいは来世や子孫に渡るまでのいのちの問題を扱うものだと思います。
 その意味で本願寺世襲という仕組みは、信仰や教義伝承には課題が多いですが、一定の意義があるとも考えます。
 
 「法脈」と「血脈」ということについて整理しながら、浄土真宗のこれからと自分の信仰を見つめなおす機縁としたいとおもいます。