「外道」ということについて少し書きたいと思います。
親鸞会では「外道」は真理の外側の教えであり仏教以外の宗教であると主張し、その関係は邪であり悪だとして徹底的に排除します。自身も親鸞会で教えられた通りに自他ともに「外道」を排除し関係を絶つように強く推進していた時代がありました。自分の親や周囲からは異様なものとして映っていたことでしょう。その言動は阿弥陀如来の慈悲の教えと遠く隔たっていたに違いありません。
確かに、仏教経典に「外道」という表現が存在していますが、最近はこの用語を持ちいることに強い抵抗を感じます。何しろ日本の俗語では「外道」を反社会勢力の意味でつかわれたりしますので、そこには侮蔑感が混ざった堕落した邪悪なものという要素が含まれています。
このような差別的で挑発的な用語を駆使して、他の宗教組織との分別を徹底するのはカルト教団に通常見られる特徴でもあり、比較的穏やかな伝統教団では用いられることは少ないようです。自分の教団に従わないものを邪としてそれを憎み排除することを(集団としての)善とする有様は、カルト的ともいえるでしょうし、今日戦争や紛争を引き起こしている宗教問題の根源にある観念のようでもあります。
宗教あるいは信仰体験において言えることは、何人も自分の通ってきた道しか分かり得ないということではないでしょうか。
キリスト教やイスラム教が何を教えているのか?あるいは禅宗や天台宗の救いとはどのようなものか?浄土教の他宗派の味わいとは?
まず、本当は一つもまともに答えることなどできないという事実を認めなければならないように思います。自分が通ってきていない境涯を私たちは他人の言葉やテクストでしか知ることができません。ただしそれらは宗教体験とは確実に異なるものです。
自我を超えて物事を捉えなければならない、という建前は頭ではわかっていることでしょう。しかしながら自己の信ずる宗教のみ正とし、異なるものを「外道」であると分別する態度が止むことはありません。よく気を付けなければならないことと感じます。
親鸞会関係の人や書籍に触れると、相変わらず仏教以外のあらゆる宗教・仏教諸派・浄土真宗の他派を否定し、自分たちだけが正しいという誤った宗教観に取り憑かれているようです。また親鸞会をせっかく退会してもそのような差別心が遺伝子のように残っている場合が見られます。それは自分の信じている団体や教義のみが正で、異なる教えや味わいは間違いに違いないという強い固定観念からくるものだと感じます。
親鸞会のような独善的で排他的な組織で苦悩した反動からか、もう他宗や他派の批判は十分だという思いもあります。阿弥陀仏の本願を真にわかっているのだ、という思いこみこそが危険だと感じるのは私だけでしょうか。
本来、如来の智慧は「無分別」ですので、「外道」を差別されることはないはずです。しかしながら、浄土真宗においても教義を踏まえた上でどのように他と接続すべきか、きちんと論証がなされているとは言い難いようにも感じます。自分の信じるもの以外の存在を認めることは、勇気のいることなのかも知れません。
親鸞聖人は「弥陀の本願は親鸞一人がためなり」と言われ「三願転入」を(他の宗教を否定するためではなく)自己の信仰披歴として説かれました。それはあくまで親鸞聖人が「愚悪の凡夫」と捉えられた自己という場所の上に在るものと思います。
では現代の私たちはどのようにあるべきでしょうか。すぐに結論は出ないと思いますし、ハッキリした答えは容易に出ないものに相違ありません。